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  縄文を旅する1  中部地方2 火焔街道を行く1  2013. 06.08(土) 新潟県長岡市関原町1丁目 字権現堂2247番2

  再取材                   前回撮影失敗のため再度別HPを編集アップロードしました。
   新潟県立歴史博物館 Part2    Part1  Part3






31縄文時代年表
32大陸との交流
33人と物の交流
34縄文工芸
漆工芸
資料
鳥浜貝塚の漆の小枝
35漆工芸


36狩猟と食生活
37漁労
38縄文建築
39織物
39貝塚
41採集と栽培
42貯蔵

 
 

  縄文時代全史年表
      縄文展示の重要なパネルです。他館との違いはこのパネル内容に象徴されています。
      この大切なものをみんな読みもしないで通り過ぎてしまいます。 どうかじっくりとご覧ください。

      縄文時代6期を別々に深い考察を加えながら展開する年表です。
      縄文という時代のあらゆる疑問を、一目で理解できる年表です。

      私が再取材したのはまさにこの年表を撮影しなおすためだったのです。
      それほど私にとってこの年表は素晴らしいものだと感じています。

      安物のカメラですので、やはりうまく撮れていません。
      そこで、わかる限り、文字に置きなおしてみました。多少誤植もありますが参考にしてください。

 31
 
原始〜旧石器〜草創期〜早期

 原始〜旧石器  草創期 早期 
※リンク先は図表を文書化したものです
前期〜中期


前期 中期
※リンク先は図表を文書化したものです
後期〜晩期〜弥生



後期 晩期 弥生
※リンク先は図表を文書化したものです
 
 32大陸との交流   大陸や半島のどこから、どんな文化を持って人々がやって来たか一目瞭然のパネルです。

交流地図 大陸との交流 大陸での出土 列島出土の渡来製品 釣針・石鋸 翡翠大珠
円孔文土器
沿海州海岸を北上してサハリン経由で到達か
有舌尖頭器旧石器時代の主な石器 「の」字状石製品 有孔石斧
山東半島付近から
三足土器
中国龍山文化/黄河中下流域から

  33人と物の交流
      最大時でもわずか25万人が分散して暮らす列島で、道もないのに人々は交流し、交易し、嫁取りまでしていた。
      自らの存在を示す木柱をたて、海に向かっては鏡石を置き、漁労・狩猟者ならではの方法があったのだ。
      当時は人に出会うことがうれしく、敵意など持たなかったであろう。後期晩期以外は。
交易地図全体1サヌカイト、ヒスイ、コハクアスファルト、黒曜石 交易地図全体2の縄文の主たる必需品について 運ばれた物資 サヌカイト ヒスイ大人気のヒスイは海路陸路両方で運搬か コハク
アスファルト アスファルト 黒曜石 サヌカイト 西日本 中央日本
東日本 北海道 コハク露頭ではなく、当時も採掘がなされたはず 黒曜石  このようなダイナミックな交易は海上交通が便利だったはず。

 アウトリガーや舷側板を取り付けた舟はまだ見つかっていないが。
 
  34縄文工芸  自然の材料をよく知りつくし、生活を便利にしたり、また、心豊かさのために持てる能力を発揮した。

縄文人木の知識ねばり、加工しやすさ、堅さなど木の特性をよく知って使っている 繊維製品木の皮からとった繊維で衣服も作りました 磨製石斧木を切り加工する必需品 三足土器

元は青銅器。神聖な祭祀に使用した
注口木器の製作途中加工しやすく割れない木が使われたと考える
木製皿
縄文ポシェット 籠製品 籠製品 石・粘土・植物・骨格器が
限られた
すべての素材だった
 
 漆工芸
    長江流域の河姆渡遺跡からは7000年前の漆器が出土している。この文化を持った人々が持ち込んだものだ。
    漆器技術を持ちこんだということは、それに付随する技術も持ちこんだわけで、高度な文化である。


 '13.11.20新事実に遭遇しました。
 日本最古の漆製品
   ウィキペディア12600年前の鳥浜貝塚と記述 ウィキペディア2垣ノ島遺跡の9000年前という リンク3カボト遺跡7000年前の記述  リンクC

   福井県鳥浜貝塚から12600年前の漆工芸品が出土していることを知りました。(誤記)また、DND分析で漆の木は日本固有のものだったという。
   では、日本から大陸へこの技術を伝えるために人が渡ったのだろうか。対馬地峡は消え、丸木舟に乗って?'13.11.20

   発見されたのは「漆の木」でした。が、樹液採取痕跡があるのか、真相がよくわからないので調べに行きます。'13.11.20
   なるべく早く結果をご報告します。ついでに越前ガニを食べられたらいいなと思います。一人前\36000はちょとタカイ

 
 「鳥浜貝塚出土の12600年前の漆の木について若狭縄文博物館で調べてきました。


 '13/12/05 鳥浜貝塚出土のウルシの木についてのご報告問題の木の写真が載ったブログ

 結果
   鳥浜貝塚から、1984年に発見され、11000年前頃の土器と共に出土した炭化した樹木から作られたプレパラートが、
   最近になって樹種を同定出来るようになり、
   調査の結果、ウルシの木(漆の樹液が採取できる木)で12600年前のものと2012年に判定されました。

 保管
   この木があるのは若狭歴史民俗資料館(休館中)で、常設展示はしていない。(しない)
   形状は小枝。当然樹液の採取痕はない。若狭三方縄文博物館にはB5版程度の写真が展示されているだけである。
   本日13/12/05行きましたところ、館内燻蒸のため臨時休館中でしたが、発見当時の貴重な文献とお話を伺いました。

 調査
   1984年出土した。プレパラート化。
   2005年に森林総合博物館(つくば市)がウルシと同定。(木材組成から植物名を同定)
          現在、列島の山野に自生するウルシと同じ種類であることがわかった。
   2012年国立歴史民俗博物館が放射性炭素分析から12600年前のものと鑑定。


 ※現在日本に見られるウルシであるという表現の仕方があるいは曲解され、
   日本固有種と受け取られ、これが独り歩きして
   ウルシは日本固有種で、日本が発祥の地であると流布されている。

   調査の過程でDNA分析は行われておらず、組成検査という目視と、炭素分析という燃えカスによる分析である。

 ※三内丸山遺跡出土のウルシは佐藤洋一郎氏(静岡大学)によってDNA分析が行われ、比較した中国産とは違うと鑑定された。
   これを、日本のウルシは日本固有種という意味に曲解されたようです。
     
   さらにWikipediaの誤りから、ネット上の言葉が研究者の言葉や、事実と誤認され、尾ひれを広げていったようである。


 ※ウルシに対する国際共同研究は2004年から始まり、まだ、初期段階である。(下の是川縄文館写真参照)

 結論
    森林総合研究所が2013.08に出した文書ウルシの健全な森を育て、良質な漆を生産する
    「ウルシという植物」という項目で「中国原産と考えられています。」とはっきり述べている。

    日本のウルシは大陸から持ち込まれたものである。



  調査内容全文

 35漆工芸

漆の採取・精製・塗装まで このような危険な植物の樹液を、なぜ使おうとしたのか。また、どうしてここまで技術が発達したのか。疑問だ。 漆の精製埃の少ないクリーンルームをどのようにして確保したのか。かぶれをどのようにして防止したのか。 塗装 完成品製品は現代でも用いられ、製造されているものと大変よく似ている。
技術的にはほぼこの時期に漆工芸は完成していたのに違いない。
 
 36狩猟と食生活  狩猟は彼らの文化である。高い技術を獲得していなければ生きていくことができないのだ。
出土品か漆塗りで
飾り付の弓
この時期に矢羽も発明されていたそうだ
様々な狩猟法と猟犬ワラダ猟(藁製ダツを投げて音で威嚇する)、仕掛け猟(落し穴)、追い込み猟(イノシシやシカ) 鹿笛 狩猟文土器狩猟の様子が銅鐸の絵より上手に描かれている 狩猟具と解体具
加工具皮や骨格を加工したかも 狩猟用石鏃 系統の違う石鏃 スクレイパー 和歌山県串本町で大変小さな鏃を膨大な量提示されていました。
これは、魚採り用の鏃です。
海でも弓で狙って漁をしていたんですね。
当時はかなり大きな魚がこませで大量に浮いてきたでしょうね。
 
  37漁労
    原始的な漁労法はこの時すでに確立しており、近世近代にそれを大規模化、機械化しただけで、
    現代も世界の各地でこの時の漁法が行われている。
漁労について 結合釣針と回転離頭銛離頭銛は漁具の革命だった 投網漁仕掛け網漁、四手網漁も縄文の漁法 えり漁・釣り漁 三脚石器漁具としての使用痕跡があったのか 釣針(一体型)直線状釣針も 銛・ヤスの部品
ヤスの部品 ヤス
モリ 石錘仕掛け網に付けた
叩き棒は編みに絡んだ魚を気絶させる
製塩土器海藻を燃やした灰から塩作りしてた。藻塩焼き 縄文カレンダー 渡来したスンダランド人によっても、操船や漁労は高度に発達していたと考えられる。
 
  38縄文建築  縄文人は木組の技を使って、高度な建築を行っていた

掘立柱切削面が鋸で切ったかのように平らである 高床住居 平地住居 敷石住居関東・中部地方に多い。 長方形住居
長方形住居 大型竪穴住居 大型竪穴住居土載せ屋根の半地下式であることがわかる
 


  39織物
    つい近年まで縄文人は全裸・裸足で毛皮をまとっただけで描かれていた。それが、学問の常識だったのだ。
    バイカル湖文化センターからやってきた人々が、そんな姿でいるはずがないではないか。

    寒冷地に適応し、寒冷対策が出来た人々がやってきたのであって、衣服や防寒靴などを身に付ける知恵と技術を持った人々であった。


  39貝塚 大変な量の貝を採取し、加工や食糧にしていたようです。
糸玉の出土
繊維製品を作っていた証拠であるが、
腐りやすい糸玉が出土している 方形建物の柱出土 これが網代壁か土を塗れば、こまいと土壁になる 貝塚 なめてはいけない
超大量のゴミ捨て穴の貝の量これだけ大量に、ざっくざく貝が採れたんだ。
貝塚は単なるゴミ捨て場じゃない。

  41採集と栽培 -縄文の食事-  
栽培とアク抜きと酒造り・栽培作物はアワ、ヒエ、豆、陸稲など多種
・堅果類のアク抜き盛ん
・酒造りは果実の自然発酵で。ハエの蛹と共に出土し蓋なし発酵した
・製塩土器で製造し交易で内陸へ
・縄文食 煮込み蒸し焼き料理が主。堅果類の団子やハンバーグ。味付けは塩・魚醤・獣脂・蜂蜜

縄文人は植物が主食であった
少ない食料を効率的に保存し、節約しながら食べるための工夫のようですね。 農耕用具や調理道具 石皿や磨り石は南アジアでは現在も調理に使われている
  
  42貯蔵  食料の貯蔵には、地下貯蔵穴 と 高床式倉建物 とがあった。北方系は地下式が多いと言われている。
貯蔵穴

地下貯蔵穴は、食品を凍結から防止し、適度な湿気を与えながら保存するのに適している。
高床式や屋内棚上には乾燥してよいものが保存される
地下式貯蔵穴
フラスコ型貯蔵穴には

時としてガスが溜まることがあり、窒息死することもある。

     アップロードの量が膨大になっています。これ以降はPart3に掲載することにします。 ご訪問ありがとうございました。


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